ヤヨイの小説、エッセイ(毎日投稿)

心の中で育てたヤヨイの物語です。

「重ねる身」

 

軽はずみな声で 私は動く


何気ない音に 耳は癒される


人との会話で 己を見つけ


己を見るために ものを作る


己と出会うために ものを書く


朝の光に身をてらい


夜の涙は空へと送り


この世の総合体を全身で受け止める


次に持ちこすのは


光で形どられたペラペラなもんだけでいい

生存確認

私の言葉が、いつか誰かに届くだろうか。

 

私の存在が、誰かの助けになるだろうか。

 

誰の助けにもなれない自分は、無価値なんなろうか。

 

自分1人だけ楽しくていいんだろうか。

 

1人では生きていけないのは分かっているけれど、社会に溶け込むのは苦手だ。

 

誰か私を見つけて欲しいと願っても、現れるはずもなく。

 

今日も独り、町をさまよう。

 

行き交う車は、生き急いでいるようで、空気が汚れていく。

 

何がそんなに、人をそうさせてしまうのだろう。

 

なぜ義務が生まれた?諦めが生まれた?

 

「生きるために生まれてきたのに。」

「生きて何かをする必要に迫られる意味はあるか。」

「生きているだけで十分なはずなのに。」

「その上で世のため人のために何かをなさなければ無価値だと言われるのはどうしてか。」

 

この世の中は、息苦しくて仕方がない。

今にも窒息してしまいそうなほど、酸素が薄い。

 

縛りという名の毒ガスを吸い込みたくなくて、今日も部屋に引き篭もった。

 

「あなたのままでいいんだよ。」

「十分素敵だよ」

「あなたが生きているだけで、私は救われているんだよ」

「私はあなたが好き」

「生きていてくれてありがとう」

 

どれだけ口にしても、私の言葉が伝わることはなくて。

無い自信によって、その言葉たちはゴミ箱に捨てられていく。

 

いつからこんな世の中になったんですか?

誰か教えてよ。

私1人じゃ、何も変えられないから。

「お前が変わるしかない」

それは私ではなくなってしまうよ。

悲しく、寂しい世界。

孤独で、弱くて、心細い。

 

それでも私が生きているのはどうしてだろう。

お腹が空いたらご飯を食べて、お金を稼ぐために仕事をして。

生きている。

自分の意思でもあるようで、誰かに、何かに突き動かされているようでもある。

そして、外の世界で吸収されるたくさんの感覚によって、噴水のように次々と感情が生まれ、私はその感情に飲み込まれる。

感情に殺されそうになる。

 

私の言葉が、誰かを笑顔にできるとはあまり思わない。

私の言葉で、誰かを直接的に救えるとも思っていない。

これはただの、私の一部の感情の記録。

 

私は生きている。

感情を抱いていて、考えている。

 

ただ、同じ時を生きる仲間が、もし私の言葉を見つけたら、どう思うだろうか。

それは私の気になるところでもある。

気になるだけで、知ろうとはしないのだが。

 

この記録に特別な意味などない。

ただ、私は生きているんだという、少しばかりの確認をしているだけだ。

 

 

 

初めて地元を歩いた感想

昨日は1人で、地元へ行った。

新幹線日帰りで、パスポートの受け取りをしに行った。

 


そこでわたしは、初めて地元の道を歩いた。

 


車と自転車しか通らない道。

車の中からしか見たことのない景色。

自転車で駆け抜けていた景色。

歩かなければ、気づくことはなかった、地元の道。

 


すごく、不思議な感覚だった。

学生も大人も、変わったような目で私を見る。

ここら辺じゃ見ない人だな〜って。

 


私は慣れないヒールを履いたせいで、意識が足の痛みに集中していた。

それでも、歩くのは楽しかった。

痛いけど、楽しかった。

 


1番長い間見てきた道のはずなのに、初めて通った道のようだった。

 


わたしはここで暮らしていたのか。

 


そんなわたしも22歳になって、懐かしの道を歩いたわけだが、本当に何もない場所なんだなと思った。

 


田舎すぎると、人々も干渉し合わないんだな〜と。

車の自転車が機械音を鳴らしながら駆け抜けていくだけ。

ただの、交通を見ているようだった。

人の温かみも感じられない。

人々の感情は各自の車の中に閉じ込められていた。

 


確かに、この土地で生まれ、そして育ったとしたら、こういう風な人間に育つのだろうな、と思った。

 


人と話すと、少し懐かしい温かみがあった。

でも、「無知」な人ばかりだ。

大人は夢がない。

子供は自由で楽しそうだった。

ここがどんな場所か知らないのは当たり前だが、夢を持っていた。

 


きっと、外の世界を見てみたいと思う人もいるだろう。

 


そんな子供に立ちはだかるのが、今までずっとその地で生まれ育った大人たちだ。

自分たちの地域しか知らないから、鎖国的になり、考えも閉鎖的になり、子供達を閉じ込める。

 


そして子供たちは怖くなって、留まって奴隷のように夢を無くす。

 


どうか羽ばたいてほしいと願いながら、この大人達はどうすればいいんだろうと考えた。

 


この人達は、この人たちで幸せなのであれば、問題はないかもしれない。

ただ、子供達を閉じ込めないでほしい。

これは、私の意見だ。

 


この場所は、この場所でいい。

そしてまた、他の場所だって、素晴らしい。

 


無い物ねだりの人間が、土地を変え、別の環境を探し、さまざまな背景を持つ人々と交流を交わし、たくさんの人と出会い、さまざまな体験をし、妬み悩み戦い挫け、また立ち上がり、幸福を感じ、絶望に打ちひしがれ、もがきあがいて、生きてゆく。そして、いずれは死んでゆく。

 


それぞれがそれぞれの場所で、唯一の幸せな人生を送れることを、私は心から願った。

 


そろそろ、帰りの新幹線の時間か。

この世からお金の概念が消えたなら

この世からお金の概念が消えたなら

人は「思いやり」で動く。

そんな社会になると思う。

 

秩序がなくなる?

いやいや、金で作られた秩序なんて

「精神の機械化」でしょ。

 

金のために働く、金のために動く。

金のために考える。金のために耐える。

 

私にはこの世界が、とてもおかしいものに見えるよ。

 

人は、金なんかなくても、動けるよ。

 

ものを落としたら拾ってくれて、受け取ったら「ありがとう」という。

頑張っている人には飲み物を差し入れして、もらったら「ありがとう」という。

「ありがとう」を言われた人は、もっともっと人を助けるし、「ありがとう」と言った人は、今度は人を助けようと動く。

 

「思いやりと感謝の世界」

 

空想かもしれない。妄想かもしれない。

反社会的思考かもしれない。

でも、そう思ってしまうほどに、みんなお金のために生きている。それで幸せならいいのかもしれないけど、私には少なくとも、そうやって生きることは幸せではないし、

みんなの、

「本当は」お金のことなんか考えずに生きたい。

「本当は」もっと自由に生きたい。

という不完全な思いに応えたい。

 

みんながみんな、思いやりで過ごせる世界になってほしい。

それが実現可能か不可能か考える前に、考えて欲しい。

もしもそんな世界があったなら、そこで暮らしている人はどれだけ幸せだろうか。

みんな笑って、笑って、笑っているはずだ。

変化

今週のお題「ほろ苦い思い出」

 

変化って、急激にするもんじゃない。

いつの間に、こんなに変わってしまったんだろう。

 

近くにいると、気付きずらいというけれど、気づけないことしかないじゃないか。

 

あの頃は、あんなに兄弟仲が良かったのに、今では大きすぎる溝がある。

あの頃は、お互い初々しく笑い合い、純粋な好きが溢れていたけれど、今はもう会わない、過去の人になっている。

あの頃は、怒られてばかりで鬱陶しく思っていた祖母だけれど、いつの間にか歳をとって弱くなり、足には痛みがあり、私が常に介護をするようになった。

 

毎日が奇跡なんだって。本当に思う。

5年後、10年後、まるで変わっている。

でもそれは「今」の積み重ねで。

今の過ごし方で5年後10年後の未来も、今この瞬間にも変わっている。

だから、自分のためになるようなことはやるべきだと思う。

 

自分で道を作っていこう。